プノンペンで300万人が大虐殺されたキリングフィールドとは

カンボジアの首都プノンペン。

暖かい気候と穏やかな国民性から平和な国である印象を受ける素晴らしい国ですが、その歴史は決して明るいものではありませんでした。

その凄惨な歴史の1つがポルポト政権、及び共産組織クメールルージュ(カンボジア共産党)によるカンボジア国民の大量虐殺です。

今回私は3回目のカンボジア訪問で初めて、大量虐殺の行われた村チュンエク、通称「キリングフィールド」を訪れてきました。

プノンペンのキリングフィールドとは

1975年から1979年のカンボジア国内で、毛沢東に心酔した狂信的な共産主義指導者ポルポトによりカンボジア国民の大量虐殺が行われた場所を「キリングフィールド」と呼びます。

当時の約5年間でカンボジア国民の全人口800万人のうち300万人が殺された

という歴史上でも類を見ない大量虐殺です。

同じ人間の所業とは思えないほどの痛ましい事件です。

キリングフィールドはプノンペンだけに留まらず、カンボジア国内に300箇所以上あると言われており、中でもプノンペンのチュンエク村のキリングフィールドは約2万人のカンボジア国民が虐殺された最大規模の収容所だったそうです。

今回はこのプノンペンチュンエク村のキリングフィールドを訪れてきました。

チュンエク村のキリングフィールドの行き方、所要時間

首都プノンペンのロイヤルパレスからトゥクトゥクを利用し、1人あたり往復10ドル(40,000リエル)ほどでチュンエクのキリングフィールドを訪れることができます。

所要時間は道路状況にもよりますが、揺られること片道40分〜1時間ほどで到着できます。

また、現地での所要時間はあまりにも見るべきものが多すぎるのでキリングフィールド滞在時間は2時間確保して置くのがベストでしょう。

phnompehn_killingfield_ticket

音声ガイド付で1人6ドル(国際学生証割引なし)、歴史を学び、当時の凄惨な出来事を回顧しながらキリングフィールドを巡ることができます。

カンボジアプノンペンに立ち寄る機会があれば、ロイヤルパレスよりもパゴダよりもキリングフィールドに必ず行くべきです。

ポルポトとクメールルージュ(カンボジア共産党)による大量虐殺概要

大量虐殺者ポルポトとクメールルージュがいかにしてカンボジア国民大量虐殺を実行したのか、その概要についてキリングフィールドでの写真も交えて綴ります。

※キリングフィールド内では全ての写真撮影は許可されています。

ポルポトはクメールルージュ(カンボジア共産党)の指導者に

ポルポトはフランス留学中に共産主義の思想に触れ、ソ連のスターリン(同じく大量虐殺を執行した独裁指導者)や毛沢東(文化大革命で農民第一を掲げ、知識人層を排斥した独裁指導者)に心酔していました。

カンボジアに戻り、クメールルージュ(カンボジア共産党)を指導する立場に上り詰めたポルポトは、農村階級の青年たちを中心に集めその勢力を拡大していきました。(農村階級を集めたのは共産主義思想の根幹にある、農民こそが革命を起こすという思想に影響を受けたため)当時集められた青年たちの多くは10代だったそうです。

後にポルポトの思想は「民主カンプチア」と呼ばれる非常に偏ったものでした。

民主カンプチアをさらに簡単に説明すると、原始時代のような農耕/狩猟生活を理想とし、皆んなで野山で平等に生きることを理想とする思想です。

その思想では医師の持つ医療技術や技工士が持つ専門技術、弁護士が持つ法律知識などが全否定され排除すべきという考え方です。

狂ってますね。

1975年クメールルージュプノンペン侵攻開始

1975年4月17日、クメールルージュがカンボジアのプノンペンに侵攻したのをきっかけに大量虐殺が始まりました。1975年は「イヤーゼロ(year 0)」と呼ばれ、共産元年として制定されました。

当時のプノンペンにはベトナム戦争の影響を逃れるために、たくさんのカンボジア国民が避難していました。そのため都市部には大量の国民が流れ込んできていたのです。

300万人もの大規模の大量虐殺が起きてしまった原因の1つにベトナム戦争による人口の都市部集中があったことは否めません。

粛清という名の大量虐殺

ポルポトはとにかく共産主義に心酔し、農民こそが革命を起こすべきだと考えていたために、知識人層を一切排除し新たな理想の国を作ることを思い描いていました。

そのために大量虐殺、粛清が手段として選ばれたのです。

「罪の無い人間を誤って殺すことは、敵を誤って殺し損ねるより、マシである。」

ポルポトの言葉です。自身の理想の達成のためなら、罪のない人間を殺しまくってでもやり遂げるという常軌を逸した思想が如実に表れています。

ポルポトは都市部プノンペンにいる人間は全て知識人層、すなわち農民にふさわしくないとして女から子供、障害者や老人など誰これ構わず「国家反逆罪」としてで手を縛り、目隠しをして収容所に連行しました。

都市部プノンペンから連行された人々は4月17日の人と呼ばれ、医療や弁護士などの専門知識を持った人、学校に通った教養のある人などはもちろん、ただメガネをかけているからという理由で知識人層のレッテルを貼られている人ばかりでした。

また、地方にいる知識人も「革命のために力を貸してくれ」という嘘の方便によって都市部に集められた後、連行されました。

phnompehn_killingfield3
トラックに乗せられて強制連行されて来られた人々

 

また、連行される際には「君たちは新しく住む都市に移動するだけだ」とクメールルージュの兵士たちは嘯き、人々を収容所へ連行したそうです。

人々の多くはその言葉を信じてトラックに乗り込み、収容所へ連れて来られたのです。

殺されることになるとも一切告げられずに。

phnompehn_killingfield4
処刑者の収容所、環境は非常に劣悪極まりなかった

 

収容所に連れて来られた人々は適当な嘘の供述書を作成させられ、国家反逆罪の罪状を突きつけられた後、毎日凄惨な拷問を受けて殺害されました。

非人道的すぎて言葉が出てきません。

処刑実行者が働いていたオフィス

 

チュンエクキリングフィールド内の建物(収容所やクメールルージュのオフィス)は全て壊されており、今では現物を見ることはかないません。

クメールルージュが追い出された後、悪行の象徴である建物は早々に破壊され、残骸は飢えて貧しい人々によって生活のための再利用として取り去られました。

なぜチュンエク村が処刑の場所として選ばれたのか

チュンエク村が処刑の場所として選ばれた理由は2つあります。

まず1つ目に、チュンエク村が人目に付かない場所だったためです。都市部から離れており、人口が少なかったため処刑を隠すために最適な場所だったのです。

もう1つの理由は、チュンエク村がもともと中国人系の人々の墓地であったため殺害した人を埋葬するのに適した土地だったためです。

いずれにせよ、虐殺の効率性を考慮してこの場所が選ばれたのです。

処刑執行の方法

クメールルージュによる処刑は卑劣極まりない残忍なものでいたが、非常に正確かつ綿密な計画のもと行われました。

まず、連行したカンボジア人の処刑名簿を作成し、チェックを入れながら一人として取りこぼすことなく確実に処刑を執行しました。処刑の前には適当な罪状を作成し、国家反逆罪を擦りつけた上での刑の執行でした。

また、処刑の方法ですがクメールルージュは銃などの武器を一切使用せず、農具(殺傷力の高いもの)やヤシの皮を利用して人々を処刑したのです。

phnompehn_killingfield10
ヤシの表面の皮は非常に硬く、鋭利なので人を殺傷するには十分

 

銃などの武器を使用しなかったのは、武器が高価すぎたため大量虐殺に膨大な費用がかかるという経済的な理由がありました。そのため、クメールルージュの兵士が素手で武器を活用して一人一人殺害して行ったのです。

また、処刑の際には周囲に断末魔の音が決して外部に漏れないように、爆音の発電機を稼働させ、拡声器を通じて革命歌を流すことによって断末魔をシャットアウトしていました。

このチュンエクでは1日に300人もの人々が処刑されました。

処刑後の処理

処刑後はあらかじめ掘っておいた穴に大量の死体を無造作に埋めました。

また、処刑後に死体を土に埋めると腐臭が生じるため、クメールルージュは食べ物に殺虫剤のDDT(田植えの際に使用される人体に有害な薬物)を混ぜて処刑者に食べさせていました。

殺虫剤DDTを使用すると死体の腐臭を多少は抑えることができるためです。

phnompehn_killingfield10
殺虫剤DDTの保管庫

 

人は飢餓状態に陥ると何でも口に運んでしまうので、処刑された人々も飢餓に苛まれる中生き延びるために殺虫剤入りの食べ物を食す他、道がなかったのです。

また、殺虫剤DDTを使用したのは周囲に田んぼが多く、殺虫剤を大量に収容所に運んでも怪しまれないと考えたからです。

それでも、遺体が発するガスが土を盛り上げるため、地面のあちらこちらは凸凹になっておりその隙間からは遺骨がその姿を覗かせています。

雨季には、地表の泥が流されるため遺骨が地面から露出します。今では数ヶ月に1回チュンエクを管理している人たちが遺骨を拾い上げる作業を行うそうです。

今でもチュンエクのキリングフィールドには大量の遺骨が埋まっています。

おぞましきキリングツリー

若い女性や子供の墓の横には一本の木が聳え立っており、「キリングツリー」と呼ばれています。

このキリングツリーでは赤ん坊の頭を杭で木に打ちつけ、母親の目の前で乳児を殺害しました。とてもおぞましい光景です。

「雑草を取り除くなら根こそぎ」というポルポトの言葉に基づき、復讐を考える子孫を根絶やしにするため赤ん坊までも抹殺したのです。

今では雨に流されて消えていますが、キリングツリーには大量の血痕や脳みそや肉片が付いていたと虐殺後初めてこの地を訪れた人は証言しています。

中にはカンボジア人以外の遺骨も

近年、遺骨の身元鑑定が進みカンボジア人以外の遺骨も混ざっていることが判明しました。

身元がわかった遺骨の多くがアメリカ人、オーストラリア人もので、身につけていた衣服の破片や歯型などからジャーナリストと断定されました。

当時のポルポト政権は徹底して外部に情報が漏れないように厳格に取り締まっていました。

誰にとっても幸せにならないただの大量殺人だった

ポルポトの目指した理想国家への革命は果たして誰かを幸せにしたのでしょうか?

処刑された人の悲運はもちろんポルポトの理想に共感し、彼に付き従ったクメールルージュの兵士たちも決して幸せではなかったのではないでしょうか?

兵士たちは連れてきた処刑予定の人々を朝から晩まで働かせることで米の生産量を3倍増やすように命令されていました。管理者の人間も生産目標に届かない場合は厳しい罰則を受けていました。

なんとか生産量を上げようとするものの、労働者は托鉢のお椀だけ渡されて、 1日2回のおかゆしか食料は与えられていません。そんな環境下で生産量が上がるはずもなく、兵士たちも目標未達成に怯えポルポトの罰則を恐れる毎日だったでしょう。

さらに命令とはいえ、同胞のクメール人を毎日処刑していてはまともな精神が保てる訳がありません

ポルポトの狂った政治は誰も幸せにすることできないどころか、全ての人々を不幸のどん底に突き落としました。

大量虐殺の生存者により作曲された楽曲「暗黒の記憶」は当時の非人道的な出来事を憎しみと哀愁が篭ったような音楽で聴くものの心に痛ましい当時の情景をありありと目に焼き付けます。

生存者の証言

我が子を失った母親は子供を失ったことを今でも忘れられず毎晩夢に出てくるそうです。

労働時間が長すぎて疲労から乳が出なくなり、満足に乳を与えられなかったため乳児が衰弱死したそうです。

 

バナナ2本ををこっそり持っていた女性が目の前で鈍器で撲殺される場面を目撃した男性は己自身への不甲斐なさと憤りで夜も眠れないそうです。

その女性はたった2本のバナナを持っていたために殺されたのです。

 

プノンペン強制連行の際に十数人の男に辱めを受けた女性は同村の仲間から激しい差別に遭い、辛い過去から逃れるために故郷を去りました。

 

家族皆で暮らしていた男性は、従兄弟を殺され、姉を殺され、母とは引き裂かれ全てを奪われました。

人生の全てを持ってしてポルポト、クメールルージュへの復讐を心に誓っています。

 

ポルポト大虐殺の終焉

 

ポルポトは猜疑心の塊のような人物で、秘密主義に徹していました

決して公の前に姿を現さず、身内にですら深い疑念を抱く人物だったと言われています。

 

処刑された人々の遺骨の近くでは、166体の首のない遺体が発見されました。

これはポルポトを批判をしたために見せしめに首を切り落とされ、殺害されたクメールルージュの兵士たちです。

猜疑心の強いポルポトは片っ端から疑いのある者を殺害しました。

その後1979年、カンボジア救済を掲げるベトナム軍の進行によりポルポトはクメールルージュとともにタイの国境付近への逃亡を余儀なくされました。

一見ポルポトは失脚したかのように思われますが、信じられないことに欧米の主要国はクメールルージュを正統と認め、クメールルージュは国連に使節団を送っていました。

残忍極まりない非道集団クメールルージュがカンボジアの代表として世界に認められていたのです。

その数年後ポルポトの独裁に反旗を翻した勢力によりクメールルージュが分裂し、その反対派によってポルポトは監禁され一年で死亡したそうです。1年で衰弱死したとは考えにくいことから反感を買っていたクメールルージュの一員に暗殺されたと言われています。

ただ、ポルポト自身の晩年は再婚した妻や孫もいたため、自分だけ幸せな人生を送っていました。

生まれて間もない1歳に満たない赤ん坊が頭を砕かれて殺されているのに、のうのうと享年81歳まで生きたそうです。

カンボジア史上、いや人類史上最悪の罪人です。

 

鎮魂の慰霊塔

phnompehn_killingfield20
チュンエクキリングフィールドの入り口に聳え立つ厳かな慰霊塔、今にも処刑された人々の悲痛な叫びが聞こえてきます

この慰安塔はヒンドゥー教と仏教の様式を取り入れた塔になっています。

塔の上部にはヒンドゥー教神ガルーダ(人間の顔をした鳥のような像)がクメール人の祖先として祀られる神ナーガ(7つの龍の頭を持つ蛇のような像)が設置されています。

この2つの像が暗示するものは「平和」「安寧」です。宗教学的にガルーダとナーガは犬猿の仲でしばしば対立関係にあるのですが、ここでは二体が塔の上部に陳列されることにより平和を象徴しています。

また、プノンペン信仰の4月17日にちなみ、慰霊塔は17階建になっています。

最後に

チュンエクキリングフィールドを訪れる前、実はそれほど訪問することに乗り気ではありませんでした。

というのも、カンボジアといえば美しい建造物や芸術作品ばかりに目が行きがちになってしまい、歴史(特に近代史)について自身が無知すぎて大虐殺という凄惨な事件について微塵も知識を持ち合わせていなかったためです。

もっと歴史を学ばなければならないという意識と、学んだ歴史を一人でも多くの人に伝えていくことが現在の平和を享受する私たちの使命なのだと痛感しました。

 

このキリングフィールドを訪れ、この場所で起きたおぞましい歴史は決して繰り返してはならないと強く思いました。

この感情は偽善でも何でもなく、キリングフィールドを訪れた誰もがこのような感情を抱くことになると思います。

 

是非、カンボジアをこれから訪れようと思っている方、カンボジアに滞在中の方、どこか旅行をお考えの方はこのキリングフィールドを是非訪れて人間の非道な行いの極みを追体験し、平和の意味をもう一度ゆっくり考えてみてはいかがでしょうか?

phnompehn_killingfield_eyecatch
Twitterでも色々呟きますので、フォローどうぞ。