広告の本質ってなんだっけ?これからの広告の在るべき形について

LINEの田端氏のオーケー、認めよう。広告はもはや「嫌われもの」なのだという記事を読んで、これからの広告の在り方についていろいろと考えさせられました。この記事に刺激を受け、広告の在るべき姿とはどんなものがあるだろうと持論を述べてみました。

従来の広告フォーマットは時代に取り残されている

これまでは情報は送り手から受け手に一方的に送信されるものでしたが、携帯電話の登場、メールの普及、スマホの普及、SNSの濫立などを通じて情報は双方向的にやり取りされるものに変貌してきました。(今でこそ当たり前ですが、以前は全く双方向のやりとりがあまり実現されていなかった)

結果、一方的に送り手から受け手に押し付ける既存の広告が時代に追いつかず、ユーザーに煙たがられる存在になりつつあります。

したがって、これまでの商慣習を引きずったままユーザーに対して一方的に広告を垂れ流したりバナーを表示したりするだけの独りよがりな対話無き広告手法はもはや通用しなくなるでしょう。

人と人との距離が現代ほど近くなく、情報伝達手段の少なかった過去は一方的なコミュニケーションでよかったのです。それの是非の議論はともかく、時代のカルチャーには限りなくフィットしていたのです。

十人十色という言葉がありますが、当時は十人一色と言われるほど皆が皆同じ方向を向くことができる社会だったと言われており、だれかと違うことよりもみんな一緒で在ることが美德とされた時代だったため、広告フォーマットも一方通行で齟齬は起きにくかったのだと推察されます。(足並みを揃えて日本という国をよりよい国にしようという意識で統一されていたこと、共通目的があったことが大きいと言われていますね。)

しかし、冒頭で述べたとおり現代は様々な技術の発展に伴い、情報がめまぐるしい速度で出回り膨大な情報を私たちは1日で処理するような時代です。そうなればこれまでのように一方通行で情報を受け付けていては、キャパオーバーで生存困難になるため、情報の取捨選択が増えます。

そうなってくると、ユーザー自身が取捨選択した情報を発信するケースも増えてきました。それゆえに双方向の対話が欠かせない時代になってきたのです。

田端氏は2017年以降の広告の在るべき姿について次のように語っています。

消費者の欲求が知覚され、需要が認識され、欲求を満たそうとする行動の文脈にかぎりなくフィットし、埋め込まれている。これこそが2017年以降に求められる広告の最善のあり方なのだ。

と結論付けており、冒頭で紹介した記事ではアマゾンDashの例を引き合いに出して説明されていましたが、私はこの文脈に添いつつ他にはどんなことができるかなーと考えていました。

つまり、極力ユーザーのコミュニケーション活動を阻害せず日常に広告として溶け込んでいくためにはどのような努力を広告業界人はしていけばよいのか、と。

双方向コミュニケーションにフィットする広告とは

私自身一時期アドテクノロジー業界に身を寄せていたこともあり、これからの時代にフィットする広告フォーマットについては常に考えさせられていました。

スマホの画面を占拠するバナーがウザいからクリックしない、だったらスマホの画面に馴染むネイティブアドだ!インフィードを出してコンテンツに馴染むように!でもいずれはそのインフィードにも限界が来るという流れが今来ていて、実際に広告ブロックアプリが流行っていてそもそも広告自体が嫌われ者になりつつあります。

ぶっちゃけたところ、広告業界、特にアドテクノロジー業界はユーザーとのいたちごっこで疲弊しているような状況です。スマホに合う広告フォーマットの最適化にリソースを割いてなんとかするという本質的ではない戦略でなんとかその場を凌いでいます。

そんな状況を見ていると小手先のフォーマット云々よりも、私はもはやユーザーつまり人が直接的に人に紹介するという”口コミ”というところにいったん立ち戻るべきなのかなと思っていて、双方向のコミュニケーションの中でお互いに”良いもの””良い情報”を交換する中に自然と広告を忍び込ませる(気付かれないほどのステマ)ことが今のところ最強なのかなーと思っています。(とても時間も工数もかかるけれども)

であるからこそ、インフルエンサーマーケティングみたいなものが出てきて新しい広告の世界を作ろうとしています。本質的だから。だけど、そこにはやっぱり旧態依然とした一方通行のコミュニケーション、「広告らしさ」が残ってしまっていてインフルエンサーをただの枠としかみなしていないから、商品や情報がインフルエンサーに馴染まず売れないという課題が存在します。

※アメリカではインフルエンサーに企画やコンセプトも丸投げで極力、「商品や情報がインフルエンサーに馴染まず」という問題が起きないようにしている事例もあるそうだけど、日本はフォーマット指定しがち。

そこで田端氏の次の一節がとても本質的で、

これからの広告は、欲望を喚起させるのでなく、欲望を充足させるものになるべきだ。そして欲望は、広告が一方的に作り出すのでなく、消費者が主体的に感じるべきものだ。

消費者が主体的に、という文脈が大事だと思っています。
というのも、広告とはもともと「広く告げる」というものでそれは商品やサービスの提供者だけが一方的に広告を出す、というものではなかったはず。

と考えた時に、消費者やユーザーが主体となって「この商品いいな」「この商品みんなに知ってもらいたいな」という欲望は必ずあるわけで、

例えば、行きつけのめっちゃおいしいラーメン屋さんがあれば友達に紹介したくなるであるとか、ニキビ肌に悩んでいたけどめっちゃ肌綺麗になる洗顔化粧品があったよ!とか(これをうまく悪用しているのがネットワークビジネスの類ですが、是非はともかく、賢いやり方だなと思ってます)

消費者自身が広告塔となるプラットフォーム

でも現実に目を向けると、消費者主体の広告って本当に無いなと。

結論何が言いたいかっていうと、消費者の欲望が局所で発生しその欲望が充足する瞬間が訪れた時、消費者が主体となってその充足を実現した商品やサービスをシェアする動きが加速し、それを支えるプラットフォームが覇権を握るようになるのかなと。(もうなってるけど、もっと進む。SEOとか意味なくなってくるんじゃ…)

インスタや、スナチャが広告のプラットフォームとして認知されて強いのは局所で発生したユーザーの欲望の充足の寄せ集めになっていてそれを簡単に検索でき、コメントで即座にコミュニケーションをとれるため、消費者の欲求が知覚され、需要が認識され、欲求を満たそうとする行動の文脈にかぎりなくフィットしているからなんだなと。

私もそんな世界を作ります。終わり。

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