当サイト運営者:なべわかしの詳細プロフィール

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はじめまして。なべわかしと申します。

いつも当サイトをご覧頂き、本当にありがとう御座います。

趣味ではじめたブログも今やたくさんの方にご覧頂いており、私の経歴にご興味を持ってくださる方も多くなってきましたので、今更ながら詳細なプロフィールページを開設させて頂きました。

かなりのボリュームになっておりますが、最後までお付き合いください。

なべわかしの経歴

プロフィール欄に、砂漠でターバンを巻いている写真を載せていることから「外国人ですか?」と聞かれることが多いのですが、すみません。私、純日本産です。

この写真、ずっと砂漠に行くのが夢だったのでお気に入りの1枚なんです。

nabewakashi

大阪生まれ、大阪育ち。大阪の天王寺高校を卒業後、上京して東京の慶應義塾大学に進学。大学では常に上位の成績を収め、ゴールドマンサックスの奨学生に選出される。入学当初は官僚を志すも、渋沢栄一氏の「論語と算盤」に陶酔し、業を起こす道に人生を大きく方向転換。大学在学中に2度の起業を経験し、卒業後は新卒で六本木ヒルズのIT企業に入社。圧倒的にサラリーマンに向いていなかったので、プログラミングを独学後一時期フリーランスエンジニアとして活動し、慶應時代の友人と起業。現在米国シリコンバレーで自社の開発プロダクトを改善中。

ざっくりと経歴をまとめると、上記のような感じです。

こうしてみると何だかまとまった経歴のように思えますが、苦難の連続だらけで全く平坦な道を歩んでは来れませんでした。

とにかく紆余曲折だらけの人生で、常に選択を迫られるようなそんな人生でした。詳細は後ほど綴ります。

なぜブログをはじめたのか

自分の経験や思想をより多くの人に届けるのができるのが面白そう!と思ったのが始まりでした。

自分の経験を誰かに話していると、興味深く聞いてくれたり、参考になったと言ってくれたり、自分の情報には意外と希少価値があるんだなという思いがブログ開設の後押ししました。

もともと5年前は「kagebozu(カゲボウズ)」という名前の学生向けのメディアだったのですが、今は雑記ブログになっていますね。

ブログをやるに当たっての信念

ブログ開設当初から、ブログをやるに当たっての信念・軸がありまして、それは「人のため、世のためとなる情報を発信する」です。

もっと具体的に言うと、過去の自分が思い悩んだことや苦しかった時期に欲しかったアドバイスを発信している、と言うのが近いです。

ですので、時々非常にニッチな記事も上がっていると思うのですが、それは私自身が思い悩んだ生の情報をベースにしているのでニッチになってしまっています。笑

ですが、そういう記事でも継続的に一定のアクセスがあるので、誰かの役に立っているんだなというのが分かり、とても嬉しいです。

なべわかしの経歴詳細

では、ここから詳細な経歴を時系列で綴って参ります。

井の中の蛙大海を知らず、な小中時代

なべわかしは生まれから高校時代まで大阪におりまして、たこ焼きを食べて育ちました。

小学校時代は体が非常に弱くて、急性髄膜炎にかかって10日間入院し死線を彷徨ったり、起立性低血圧という緊張したり、朝起きてすぐには貧血状態になってまともに生活するのがしんどい時期でした。

おまけに勉学の方はサッパリで、柔らかいカラーボールで「手打ち野球」というのにハマり常にそればっかりしていました。

6年生の時に友人に「お前の偏差値いくつよ?」と言われて、「へんさち?(何だろう、打率のことかな?)」というぐらいには壊滅的でした。

 

そして中学は地元の公立中学が本当にヤバイほど荒れていて(大阪の中でも東大阪といえば結構なヤバイエリア)、いじめられるのが嫌だったので、新設の私立中学入学を選択しました。

新設の中学はほぼ偏差値とか関係なく入れたので、ラッキーでしたね。入学後はもちろんダントツのビリ。植木算とか関係代名詞とかを中学生時点で周りが理解していてめっちゃ焦ったのを覚えています。

(ちなみに第一志望の偏差値高い中学は受けたのものの落ちました。そりゃそうだ。)

手打ち野球が好きだった影響で、万年初戦敗退の野球部に入りました。入部5日で肘を痛めましたが笑

練習は非常にきつかったのですが、ほとんど勝てずに3年間終わりました。笑

 

中学の後半では好きな子ができた(というか物心ついてその子のことが好きだとわかった)ので、このままではいかん!とカッコつけたくてクソ勉強しました。

中2病は偉大ですね。

勉強しすぎて五ツ木の模試かなんかで、全国10番以内に入りました。ありがとう、初恋の人(今はもう既婚、悲しい)。

そんな感じで中学期の覚醒を経て、大阪で1番の天王寺高校に進学しました。

(そして、ここでも実は第一志望の理数科は落ちました。悔しかった。)

高校時代、凡人の自覚

高校時代、入学して最初の腕試しテストでも下から3番。これは正直ショックでしたね。

中学時代無双していたのに、上には上がいると。こんな奴らがどこに潜んでいたんだとすげえ悔しかったです。

 

そして、高校でも野球をするために硬式野球部に入学。公立の進学校ながら、甲子園を目指す力のある野球部だったので、最後まで続けられるか不安を抱えながらも入部しました。

入部3日後に壁に拳をぶつけ、ボールが投げられなくなり2ヶ月永遠にダッシュと腹筋をしていました。出遅れ感はんぱなくて、辛かったです。

おまけに同期にはプロに行くほどの力のある奴がいて、ここでも自分の才能の無さをまざまざと見せつけられました。

ああ、自分って凡人なんだわ。と痛烈に自覚させられた瞬間でした。

 

野球部の理念は文武両道だったので、部活だけではなく勉学も非常に力を入れる必要があったので、非常に大変な青春時代を送っていました。

自宅から高校まで1時間半かかったので、6時半開始の朝練に間に合わせるために毎朝4時半起き。練習は夜21時くらいまであったので、文字通り朝から晩まで野球でした。

その上、進学校なので勉強も並大抵の努力ではついていけないので、電車の時間や帰宅後の時間を使って膨大な宿題とテスト予習に追われていました。

補習になると、試合にも練習にも出してもらえなくなるので本当に死ぬ気で毎日生きてました。この時期が一番しんどかったです。

 

そして、この頃私は宇宙に非常に興味がありました。

というのも天王寺高校はスーパーサイエンスハイスクール、通称SSHという理科系のお国の指定高校だったので最先端分野の技術を学ぶ機会が多くありました。

そこでJAXAという日本版のNASAみたいな宇宙機構が講演会に訪れた際に、いつか宇宙に携わる仕事がしたいと思い始めていました。

 

そんな思いで高校3年間を過ごし、最後の最後に人生のどん底とも言える時期を経験します。この時の体験が今の私の原体験となっていると思います。

 

人生の暗黒時代、どん底期

宇宙に携わる夢ですが、そのためには物理系科目で点数が取れなければいけないのですが、全く点数が伸びませんでした。

他の科目は伸びたのに、物理だけが壊滅的でした。摩擦係数や作用・反作用の計算がいつも合わない。自分の感覚と物理上の感覚が全く合わず、「向いてない」と突き付けられました。

この時に文転して、JAXAへの夢は断ちました。

今ではいい判断だったのかなと受け入れていますが、当時は受け入れ難かったです。努力をいくらしても叶わないことがある、というのを深く学びました。

 

高校3年生の野球部といえば最後の夏の大会ですね。背番号をもらえるかどうかで、最後の集大成が決まる、野球をやる人間にとっての一大イベント。

私たちの代はプロ入りするような力のあるエースがいたので秋の大会ではベスト16に入り、今年はいける!と皆で一致団結していました。

私はそれほど野球がうまくなかったので、バントや守備などの小技系でなんとかレギュラーを獲得していたもののずっとスランプでなんとか最後の夏の大会のレギュラーの内定までこぎつけていました。

 

「朝4時半起き、夜は12時就寝を3年間ほぼ毎日こなしてきた集大成の夏の大会」

 

絶対に活躍してやると決意を胸に、学校から帰路につこうとすると過去にこれまでに経験のない腹痛に見舞われて、環状線(山手線の大阪ver.)の中で倒れこみました。

ドラマとかで、目の前が真っ暗になる描写があると思うんですが、あれがまさに自分の身に起きました。意識を失って倒れたらしいです。

そして、そのまま京橋の近くの病院へ緊急搬送され、ICU(集中治療室)にぶち込まれました。

何が何だかわからないうちに大量の鎮静剤と痛み止めを打たれて、親が病院に呼びつけられました。

診断の結果、腫瘍ができてる。

と言われ、「すぐに開腹手術の必要がある。場合によっては悪性だった場合転移も考えられるので、もって3日となります。」と告げられました。

 

その場で親は泣き崩れるし、先生も真顔で言い放つし、私は「あれ?死ぬの?最後の夏の大会出れないじゃん」とか、とにかく頭が混乱に混乱を重ね、走馬灯すら浮かぶ余裕がなかったです。

一番辛かったのは死ぬことよりも、大会10日前になんで自分がこんな目に遭うんだという虚無感が強かったです。

何に怒ればいいのか、何を振り返ればいいのか、突然降りかかる病という理不尽はどうしようもないんですよね。

 

そしてその日に緊急手術。

手術では少々グロい話ですが、なかなか腫瘍位置が掴めず20cmほど開腹して腸を全て押し退けての大きな手術になったらしく、難航を極めたみたいです。

結果的にはでっかい石が出てきて(本物の石ではなく、体の堆積物?)、それが腸を壊死させかける寸前までいってたらしく一命を取り留めました。

生きてるって素晴らしいな、という思いと同時に、人はいつ死ぬのかわからんのだな、というのを身を以て経験しました。

今でも傷を見るたびにこの時の思いが蘇ります。

 

腹を大きく切った=腹筋も機能しない、ということなので当然夏の大会は出れず。そして、初戦は優勝候補とあたり、0-1という僅差で私たちの夏は終わりました。

ここでも神様は本当に意地悪ですね。

本来私が立つべきだった打順に後輩が立ち、その後輩のバントの失敗でダブルプレーゲッツーで試合終了になりました。

私はバントに絶対的自信を持っておったので、なんであそこに自分が立っていなんだとやり場のない無力感を今でも鮮明に思い出せます。

敗退後の最後の一言は、泣きすぎて何も言えませんでした。

 

他の野球部の仲間たちはスパッと切り替えて、受験モードに入りました。しかし、私は全然勉強にも身が入らず不完全燃焼のまま無駄な時間を過ごしてしまいました。

その結果、仲間の多くは皆京都大学に進学し、私は受験に落ちました。

親に何とか頼み込み、浪人生活がスタートしました。

 

浪人生活は日本一勉強したと胸を張って言えます。基礎から徹底的に弱点を洗い出し、朝から晩まで遊ぶことなく毎日勉強しました。誰よりも早く塾に行き、最後まで残って過去問を解く。

高校野球時代の精神力のお陰で、1日もサボることなく勉強しました。

結果、入塾当初は灘高校や西大和といった県外の超エリート校の人間を押し退け、駿台西日本の半期トップ20に入り、記念トロフィー(クリスタルみたいなやつ)を頂きました。

「君は絶対に第一志望に行ける」

そう背中を押され、国立大学を受験しました。

 

ちなみにこのクリスタルをもらった人はこれまで誰も第一志望に落ちてないらしいので、最高のゲン担ぎだったのですが、私は見事に第一志望を落ちましてその伝統を破壊してしまいました。

中学、高校、大学とここまで第一志望に嫌われるのは私ぐらいじゃないでしょうか。この時は生きてる意味がないんじゃないかなと、思えるほどに落ち込みました。

文字通り死にたくなりました。笑

ですが、一応慶應や早稲田などの私立は合格していたので、運命に導かれるまま慶應に進学することに決めました。

慶應に決めた理由は、「名前がかっこよかったから」です。(当時親に言ったら殺されるなあ。)

慶應入学、大学デビューで浮かれる

天王寺高校出身者で、国立にいけなかった者を揶揄して「天カス」というのですが、天カスとなってしまった私は半ば自暴自棄で上京してきました。

親に高い入学金を出してもらって、東京にも出してもらって申し訳ない気持ちで肩身が狭すぎて潰れてしまいそうでした。

上京してきた当初東京は本当に眩しかったです。渋谷、原宿、新宿、六本木、横浜。

大阪から出てきた田舎者、箱入り息子にとって東京はあまりにも楽しすぎました。とにかくはしゃぎました。

大学の新歓、サークル、飲み会、合コン、全てが新しくて全てが刺激的でした。この頃は学生の本分がぶっ飛んでいました。

本当にアホなことをしてしまったなと猛省しています。

そのツケは自分の財布に大打撃を与えました。自分でロクにお金の管理をしたことがなかったので、使うだけ使って飯代すらなくなるという見事な世間知らずっぷり。

初めてバイトというものを知り、せっせと身を粉に働きその金を遊びに使うという大学生デビューのど真ん中を生きていました。

私の人生を変えたミャンマープログラム

自堕落な生活を続けていたある日、英語の授業で一緒になった先輩に連れられ「ミャンマープログラム」という慶應を代表してミャンマーのユニセフ系の視察プログラムに出会いました。

「うまい飯食わしてくれるんじゃないの?なんだよこれ。発展途上国に行って何になるんだよ?」

と見事なクズ思考でこのプログラムの説明会に行きました。本当にクソ野郎でした。

説明会に行くと、全て英語。何にも理解できずにスマホを見ていると、先輩に「おい、お前も行くぞ」と半ば無理やり連れていかれることに。

この連れ出してくれた先輩にはマジで感謝しています。

この連れ出しがなければ、何も成し遂げず自堕落な生活で終わっていました。

 

ミャンマープログラムは全2週間。ヤンゴン、マンダレー、パガンという3都市を現地の学生と各国のアジアの大学から集まった生徒と見学するプログラムでした。

発展途上国を実際に訪れ、夜は英語でセッション。真剣にアジアの未来についてディスカッションするプログラムでした。

私はもちろん当時は英語喋れないですし、聞いても訳がわからなかった。

毎日が苦痛で、劣等感バリバリ、無力さと惨めさを感じ続けていました。

「俺は何をやってたんだろう」と。

 

発展途上国だと、下に見ていた現地のPCPの学生たちは、英語ペラペラ+国の未来を真剣に考えてビジョンも明確に描けている。

各国の中国や韓国、タイの学生も国の未来を真剣に考えている。

誘ってくれた先輩も普段はヘラヘラしているけど、確固たる信念をもち英語で世界と対等にディスカッションしている。

「自分はほんまにゴミクズやな」と。

これまでの自分を全否定されました。

このままではいかん。自分も何かを成し遂げられる人間にならなければならない。

この瞬間に何かスイッチが入ったのを覚えています。

大学のサークルや飲み会は参加を極力減らし、大学の時間を有意義なものにしようと自堕落な生活を全て捨て去り、全てを変えました。

帰国後、一時期官僚を志す

帰国後は見違えるように精力的に色んな人に会いました。

勉学にも徹底的に打ち込み、毎日を懸命に生きようと意識を変えました。

その中で、目標が定まっていなかったので、日本の経済に貢献したいと思い金融庁を志望し、1年生ながらインターンに参加したりパネルディスカッションに参加したりと霞ヶ関に足繁く通いました。

それが正解なのかはわからなかったですが、とにかく前へ進もうともがいた時期でした。この時にかなり金融の勉強をしました。

ゴールドマンサックス奨学生に選出される

ミャンマーから帰国後、成績もほぼオールA(当時はAが最高)を取得し、学外活動にも勢力に打ち込んでいたことから、ゴールドマンサックスの奨学生にただ一人選ばれました。

以下の記事にも綴っているので、興味のある方は参考にしてください。

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金融の勉強もかなりしていたので、それも有利に働いたのかなと個人的には思っています。

翌年も成績を維持し、2年連続で奨学生に選ばれました。この年は3人受賞していますが、残り2人も私の上の記事を読んで一緒に応募した慶應の友人です。

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この頃私の適性は金融だと思い、企業金融や財務系の勉強を中心に行っていました。

 

発展途上国へバックパッカーしまくった大学時代

ミャンマープログラムの影響で、発展途上国が大好きになりました。

もっと世界のいろんな価値観に触れたい、もっと世界には意識が高い同世代がいてそいつらいに会いたいとそういう気持ちが非常に高かったです。

ゴールドマンサックスさんの奨学金があったので、それをうまく利用して海外に行きまくりました。

この時に象使いの資格を取ったりしてました。

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東南アジアでは、タイ(3回)、カンボジア(3回)、ベトナム(5回)、フィリピン(3回)、ミャンマー(1回)、ラオス(3回)

東アジアでは、韓国(4回)、香港(3回)

アフリカでは、モロッコ(1回)、エジプト(1回)

と、これから伸びると言われている国を多く訪れました。

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東南アジアの記事もいつか書きたいと思っているので、本業が落ち着いたら記事にしようと思います。

世界に出ていろんな人と話すのは楽しいですね。

英語力も上がりますし、何より日本という国を客観的に見ることができるのは非常に楽しい。

「官」から「民」へ、起業の道へ

官僚を志していた私でしたが、商学部に在籍しながら何故か孔子の「論語」という中国の哲学に惹かれて、それを研究するようになりました。

中国人の教授と永遠に論語を輪読してました笑

そんな中一冊の書物に出会って、人生の方向が大きく変わりました。

渋沢栄一氏の「論語と算盤」という本があるのですが、これが非常に自分に刺さりました。

渋沢栄一は、慶應の開塾の祖である福沢諭吉先生と並び称される、「実業家の父」と言われており、今日本に現存する大企業の多くはこの渋沢さんが設立に関与しています。

明治の文明開化の礎にはこの渋沢さんがいたのですが、その渋沢さんの論語の解釈がこの「論語と算盤」なのです。

つまり今風に言えば、「明治期の実業家の父が論語を読んだならば」みたいな本です。これが非常によかった。

この本を読んだその日から、自分で事業を起こして国に貢献したい。そういう思いが強くなりました。

思い立ったが吉日、就職会場に行けば学生でも雇ってもらえるんじゃないかな!みたいなテンションで身分不相応ながら、金髪タンクトップという世間知らずな格好で「企業」を見るために「企業説明会」に行きました。

今からすれば、非常に愚かしい行為だと赤面ものですが、この厚顔無恥な愚行のおかげで19歳にして初めて起業を経験しました。

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そこに来ていたベンチャーの社長に気に入られて、ビジネスコンテストで案が採用されて人材事業を興しました。

詳しくは上の記事にて綴っていますが、最後は自分の力が圧倒的に足りず、事業を返却するという形で失敗しました。

ここで完全に自信を無くしていたのですが、性懲りも無く2回目はイベントのパーティー事業・モデル斡旋事業でのし上がろうとしました。

この時は正直儲かっていました、しかし自分の力を過信し過ぎたためのしっぺ返しがとても大きかった。

まず、この芸能系のビジネスには”シマ”があること。しっかりと利害関係を調整しないと、上から潰される、妨害されるんですね。

加えて、内部の謀反や売上の持ち逃げなど、杜撰な管理体制からの崩壊。ぶっちゃけイベント事業は誰にでも真似できるビジネスだったので、すぐに元仲間にマネされて終わりました。

あっという間に全てを失いました。

 

1社目は圧倒的な自分のスキル・経験不足から、2社目は圧倒的に自分のスキル・経験の過信から。

当時は本当に心が折れました。

折れた心のまま、流されるまま膨大な数のインターンに参加して就職活動をしました。

外資コンサル、外資金融、ベンチャー、スタートアップありとあらゆるところに顔を出して彷徨っていました。

失意のまま就職

大学卒業後は六本木ヒルズのIT会社に就職を決めました。

決め手は経営者でした。外コンや外資金融で高給取りでウェイウェイするのもいいかなと思っていたのですが、やっぱり腐っても元起業家。

やっぱり世間で成功を収めている経営者というものを間近で見たかった。一緒に働いて凡人の自分と何が違うのか見極めたかった。

そんな思いで、その会社に入社を決めました。

 

一緒に入社した仲間も、同じような動機で入って来た人が多かったです。

しかし、現実はそう甘くなかった。新卒で入って来て何にも信用のない人間が「新規事業やる!」とか「起業をしたいからそのスキルつけたい!」とか好き放題できるわけないんですよね。

会社は一つのコミュニティ。秩序や序列は守らなくちゃいけないのです。

それは会社が悪いとかそういう話では決してなくて、私が圧倒的にサラリーマンに向いていなかったというだけの話です。

以下の記事で辞めた直後の心境を語っていますが、やっぱり私は起業して自分が生きた証を残したい。

世の中に価値あるものを生み出したい、とそういう思いを抑えられませんでした。

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今、世間ではサラリーマン vs フリーランス vs 起業という議論が盛んですが、ぶっちゃけ自分の気持ちに素直に従うのがいいと思っています。

どれも一長一短あって、必要な役割であるし、どれが欠けても世界は回らないんです。

それを理解した上で、自分の心に嘘をつかないような選択をするのがみんなにとってWinWinなんですよね。

見切り発車で退職、スキルも何もないさてどうしよう

新卒で入った会社を光の速さで辞めてしまった私は、当時ただの営業マンでした。

他にはなんのスキルもないし、フリーランスで活かせる特技もない。

「やばい、死ぬかな?」という思いが頭にはずっとありました。

 

そんな中、一人のエンジニアの師匠に出会い、「エンジニアになれば?」というアドバイスをもらいました。

いやいやいや、23歳でエンジニア?未経験で?無理でしょww

とその時は笑って一蹴していたのですが、よくよく考えればもう後はないですし、エンジニアになればスキルもつくから自分でプロダクト作れるし最強じゃね?

と自分で納得できたので、エンジニアの師匠にメンターとしてついてもらうことにしました。

そこからは2ヶ月間寝る暇もなく、コードを書きました。

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この辺りの記事で当時のことは書いてあるので、未経験からエンジニアいいなと思う方は参考にしてみてください。私は今ベリーハッピーです。

コードを書き続けて、初案件をこなした時すごい達成感でしたね。

「うわ、俺、エンジニアになれたんだ(ブワっ)」みたいな泣かずにはいられなかったです。誰よりも勉強しました、後がなかったので。

その時得た知見はこちらの記事にまとめました。

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エンジニアに転身し、フリーランスエンジニアとして活動していると慶應時代の旧友からメッセージが来て飲むことになりました。

それはもう本当に奇跡的な偶然だったと思っています。

飲んでいると、相手はバックエンドエンジニアとしてフリーランスで受託開発をやっていることがわかり、私はフロントエンドでフリーランスとして芽が出て来ていたので、「あれ?これ会社としてやれんじゃね?」というシナジーが生まれて、気が付くとその10日後に会社を作っていました。

「受託開発・ITコンサルティング事業」として私たちはスタートしました。

その後もそれなりに売上は上がり、いい感じに業績も推移しています。

自社プロダクトの開発と、人生の勝負

ここまで非常に長い経歴にお付き合い頂きありがとうございます。

これでようやくなべわかしの「今」に追いつくことができました。

現在は自社でサービスを開発しており、年内にはリリース致します。

これまでのいろんな方のご縁が積み重なり、数千万規模の調達も水面下では進んでおり文字通り「人生の勝負」をするべく社を挙げて取り組んでいます。

その一環として、開発の本場シリコンバレーで弊社のプロダクトをブラッシュアップします。

アメリカには既に同一分野で成果を挙げているプロダクトがあるので、上手く立ち回りながらアドバイスをもらいつつプロダクトを叩きます。

失敗ばかり、紆余曲折だらけの人生でしたが今ようやく勝負ができるラインに立てたなとそういうステージです。

本当に厳しいのはこれからですが、全身全霊会社と私の命をかけて人生勝負していきます。

 

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